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本日秋晴れ/朝から本の探し物をしていたら昔買ったヴィム・ヴェンダースの「いつか‥」を発見/箱入りの小さな写真集/1994年パルコ出版/ヴェンダースは映画監督だが写真も撮る/当時はつまらない写真集だと思ったが今見るとなかなか良いのだw/始めに「写真を撮るということに」と云う序文が記されている
スナップを撮る。
写真は時間の行為だ。
写真は時間から何かを引きずり出し、
自分の流れそのものを変えてしまう。
人は、
カメラの「前」では、時間によって奪いとられたものが、
在る、と考える。
しかしそれは間違っている。
写真とはむしろ二つの方向に向かった行為のことだ。
前。そして、後ろ。そう、
「後ろに向かって」もいるのだ。
こんなにしっくりこない比喩もめずらしい。
猟師が目の前の獲物に向かって猟銃の狙いを定め、引き金を引く。
銃弾が猟銃から放されるとき、猟師が反動を受けるように、
カメラマンがシャッターを押すとき、
彼もまた自分自身へと突き飛ばされる。
写真は常に二重の映像だ。
つまり、カメラはとらえたものを写しとめると同時に、
「背後」への「反動」を起こし、
写真を撮った瞬間のカメラマンの姿をも画面に写し込んでしまう。
あらゆる写真に写し込まれるいるこの二重性は
レンズがとらえたものではない。
ちょうど、猟師がその弾丸によって
本当にはじきとばされるのではなく、
ただ反動を感じるだけなのと同じだ。
では写真の「反動」とは何だろう?
人はこれをどうやって感じるのか?
これは、どのようにして写された画像に刻印されるのだろう?
その何かが写真に焼き付けられるのだろうか?
ドイツ語には、
このことを言い表すのに、多層的な意味を持つ、
大変都合のよい言葉がある。
EINSTELLUNG(アインシュテルング)
何かあるものに対して心理的、あるいは倫理的に、
「順応する」ときの心がまえを、
人はこの言葉で表現する。
すなわち、何かを待ちかまえ、受け入れるということだ。
この言葉は、また、
写真、あるいはフィルムに関係する言葉でもあり、
その場合には、
画像、あるいはカットを意味する。
さらに、カメラマンが写真を撮る場合の、
明るさやシャッタースピードを
「調整」ときにもこの言葉が選ばれる。
同じ一つの言葉が、
ある動作だけではなく、
この動作によって得られる画像をも意味するのは偶然ではない。
実際、あらゆるEINSTELLUNG
─すなわち、あらゆる「画像」─は、
その画像が撮られたときの
EINSTELLUNG─すなわち「かまえ」─を反映している。
猟師の経験する衝撃は、すなわち、
撮られたものの背後に見えかくれする撮った人間の肖像である。
そこには彼の顔かたちではなく、
彼の「かまえ」─が、
目の前にあるものへの、
彼自身の「かまえ」が、
写し込まれるのだ。
カメラは、
前と後ろを同時にとらえることのできる眼だ。
前への視線が
写真家の魂のシルエットをとらえる。
写真家は、その眼を通して自分を振り返る。
カメラが眼の前の対象をとらえる。
と同時に、何故この対象が自分をとらえたのかを
自分に振り返って尋ねるのだ。
カメラは「もの」とその「もの」に向かう
己の欲望を同時にとらえるのである。
そう。
あらゆる瞬間に、
この世界のどこかで、
誰かがシャッターを押している。
そして何かを定着する。
一回限りの光、
一つの顔、
一つの風景、
一つの気分、
あるいはただ単に一つの状況が、
彼を、彼女を、魅了し、定着を迫ったのだ。
写真の対象、
それははっきり目に見える。
そして無数にある。
そして一瞬一瞬
無限に更新されてつつ増大して行く。
世界のどこかの、写真家にとって、
すべての瞬間はしかし、一回限り、
かけがいのないものだ。
時間。
つかまえることのできない時間が、
その保証人とは。
旅行者の、
「シャッターチャンス」に撮られた無数のスナップ写真さえ
それが一回限り、
かけがいのないものであることに変わりはない。
時間。
その、およそたるにたらない一瞬でさえ、
旅行者のシャッターの一押しでさえ、
それは一回限りで二度と再び呼び戻せない。
驚くべきことに、
写真には、そこに、時間が「定着」されていると考えられているが、
実はその反対で、
あらゆる写真の中で、時間が、
いかにとらえがたいものであるか、
いかに無常なものであるかが
明らかにされるのである。
あらゆる写真は
私たちが死ぬべきものであることを想起するよすがとなる。
あらゆる写真は生と死をテーマとする。
あらゆる「定着された画像」は聖なるアウラをはらんでいる。
それは写す者のまなざし以上のものとなり、
人間の能力を超えて行くのだ。
だからあらゆる写真は一つの創造行為でもある。
時間を超越し、
神の視点で見ることである。
それは忘却の彼方に沈んだ戒律を想起させる。
「汝、いかなる似姿をもなすなかれ・・・」
写真を撮ること
─よりふさわしくは、写真を撮ることを「許す」こと─は、
真実であるには美しすぎる。
次のように言ってもかまわない。
美であるには真実すぎる、と。
写真を撮ることはいつでも常に僭越で、反抗的な行為である。
撮ることは尊大である、
そして同時に滅多にないほどの謙遜を教えてくれる。
(それゆえに尊大な「かまえ」と、
同じぐらい謙虚な「かまえ」が共存し得るのだ。)
カメラを二つの方向、
─前、そして後ろ─に向けることは、
二つの画像を互いに融合させることだ。
そうすると、「後ろ」は「前」の中にとり込まれる。
カメラは写真家に、
撮る瞬間、
対象から引き離されることなく、
対象の前にいることを許すのである。
ファインダーを通して、
世界を覗くものは、自身から離れ、そして自身を超えてしまう。
よりよく想い/出し、
理解し、
聴けるようになり、
そればかりかもっと、愛することができるようになる。
(そして、残念なことに、より多く見誤ることも確かだ。
いわば「不吉な眼差し」。)
あらゆる写真は、
時間における、あらゆる「一度だけ(ONCE)」は、
歴史の始まりでもある。
歴史は「むかしむかし・・・(ONCE UPON A TIME)」で始まる。
あらゆる写真は、ある映画の最初のカットでもある。
多くの場合、これに次の瞬間が続く。
もう一度シャッターを押せば動きが生まれる。
次のイメージが出来れば、
固有の空間と、
固有の時間における、
「物語」が動き始める。
少なくとも私にとっては、しだいしだいに
写真を撮ることが「物語の発見」であるということを、
意味するようになってきた。
だから、この本の中では、多くの場合
一枚だけではなく、何枚かの写真によって、
それぞれの物語が構成されている。
二枚目の写真から既に「モンタージュ」が始まっている。
一枚目の写真で予告された物語が、
固有の方向へ、時間の感覚を漂わせながら揺らいでいく。
ある時には主役だと思われたものが、単なる脇役にすぎないとわかる。
また、ある時は中心となるのが人ではなく、風景だったりする。
私は、風景に、物語を生み出す力があると確信している。
街であれ、砂漠であれ、山並みであれ、海岸線であれ、
物語を求めて叫んでいる風景というものがあるのだ。
それは「自らの物語」を呼び覚ます。
そう、自らを「生み出す」のだ。
風景は主役を演じることができる。
そのとき、人はエキストラにすぎない。
私は、また、小道具たちの雄弁さを確信している。
写真の隅に何気なく置かれた新聞紙が、
すべてを物語っている場合だってあるのだ!
あるいは、背景に見えている広告の掲示板!
あるいは、写真の角すれすれに停まっている使いものにならなくなった
自動車!
椅子!
ものの存在は、それだけで、
かつて誰かがそこから身を起こした立ち去ったことを示唆している。
タイトルの半分だけが読めるテーブルの上に広げられた一冊の本!
街角に捨てられたタバコの空き箱!
スプーンが立てかけられたままのコーヒーカップ!
写真の中では「ものたち」が、楽しそうにも、悲しそうにも、
それどころか喜劇的にも、あるいは悲劇的にもなれるのである。
あるいはただの服!
多くの写真でそれが最も刺激的なものになっている。
少年の足にたるみながら引っかかっている靴下!
後ろ姿のひっくり返った襟!
汗の染み!
皺!
つぎやボタン!
真新しいアイロンの跡!
ある女の生きざまが、彼女が身につけているものの中に、
その受難の歴史の中に、現れるのだ!
一人の人間のドラマが、身につけているコート一枚に刻まれている!
着るものは、写真の中の温度を、日付けを、時刻を、
戦争の渦中なのか、それとも平和のうちにあるのかを教えてくれる。
そして、カメラの前では何もかもが「一度だけ」。
「一度だけ」が写真に撮られてると、
「いつも/何度でも」に変貌してしまう。
写真に撮られて初めて、時間は目に映るようになる。
一枚目の写真と二枚目の写真の「間」の時間の中に、
もしもこの二枚の写真がなかったら、
すっかり忘れられてしまったまま「何度でも」に
呑み込まれてしまっただろう
「物語」がよみがえる。
私たちは、撮る瞬間、
この世界から消え去り
「もの」の中に入り込むために、
シャッターを押す。
写された世界と「もの」は、
写真から抜け出て、
その写真を見る者のまなざしを受け、
物語として生き続ける。
私は、
この写真集が、
一冊の物語になればよいと願っている。
物語はまだ「生まれていない」。
まなざしで聴こうとする者の前には、
やがて物語が現われるのかも知れない。
追記
この本の最後に書かれていた言葉
「一度は(かつて)は、(まだ)ないのと同じ」という格言がある。
子供の頃は素直にそう思っていた。
しかし、少なくとも写真に関してはこれは正しくない。
「かつて、は、一度限り」なのだ。

スナップを撮る。
写真は時間の行為だ。
写真は時間から何かを引きずり出し、
自分の流れそのものを変えてしまう。
人は、
カメラの「前」では、時間によって奪いとられたものが、
在る、と考える。
しかしそれは間違っている。
写真とはむしろ二つの方向に向かった行為のことだ。
前。そして、後ろ。そう、
「後ろに向かって」もいるのだ。
こんなにしっくりこない比喩もめずらしい。
猟師が目の前の獲物に向かって猟銃の狙いを定め、引き金を引く。
銃弾が猟銃から放されるとき、猟師が反動を受けるように、
カメラマンがシャッターを押すとき、
彼もまた自分自身へと突き飛ばされる。
写真は常に二重の映像だ。
つまり、カメラはとらえたものを写しとめると同時に、
「背後」への「反動」を起こし、
写真を撮った瞬間のカメラマンの姿をも画面に写し込んでしまう。
あらゆる写真に写し込まれるいるこの二重性は
レンズがとらえたものではない。
ちょうど、猟師がその弾丸によって
本当にはじきとばされるのではなく、
ただ反動を感じるだけなのと同じだ。
では写真の「反動」とは何だろう?
人はこれをどうやって感じるのか?
これは、どのようにして写された画像に刻印されるのだろう?
その何かが写真に焼き付けられるのだろうか?
ドイツ語には、
このことを言い表すのに、多層的な意味を持つ、
大変都合のよい言葉がある。
EINSTELLUNG(アインシュテルング)
何かあるものに対して心理的、あるいは倫理的に、
「順応する」ときの心がまえを、
人はこの言葉で表現する。
すなわち、何かを待ちかまえ、受け入れるということだ。
この言葉は、また、
写真、あるいはフィルムに関係する言葉でもあり、
その場合には、
画像、あるいはカットを意味する。
さらに、カメラマンが写真を撮る場合の、
明るさやシャッタースピードを
「調整」ときにもこの言葉が選ばれる。
同じ一つの言葉が、
ある動作だけではなく、
この動作によって得られる画像をも意味するのは偶然ではない。
実際、あらゆるEINSTELLUNG
─すなわち、あらゆる「画像」─は、
その画像が撮られたときの
EINSTELLUNG─すなわち「かまえ」─を反映している。
猟師の経験する衝撃は、すなわち、
撮られたものの背後に見えかくれする撮った人間の肖像である。
そこには彼の顔かたちではなく、
彼の「かまえ」─が、
目の前にあるものへの、
彼自身の「かまえ」が、
写し込まれるのだ。
カメラは、
前と後ろを同時にとらえることのできる眼だ。
前への視線が
写真家の魂のシルエットをとらえる。
写真家は、その眼を通して自分を振り返る。
カメラが眼の前の対象をとらえる。
と同時に、何故この対象が自分をとらえたのかを
自分に振り返って尋ねるのだ。
カメラは「もの」とその「もの」に向かう
己の欲望を同時にとらえるのである。
そう。
あらゆる瞬間に、
この世界のどこかで、
誰かがシャッターを押している。
そして何かを定着する。
一回限りの光、
一つの顔、
一つの風景、
一つの気分、
あるいはただ単に一つの状況が、
彼を、彼女を、魅了し、定着を迫ったのだ。
写真の対象、
それははっきり目に見える。
そして無数にある。
そして一瞬一瞬
無限に更新されてつつ増大して行く。
世界のどこかの、写真家にとって、
すべての瞬間はしかし、一回限り、
かけがいのないものだ。
時間。
つかまえることのできない時間が、
その保証人とは。
旅行者の、
「シャッターチャンス」に撮られた無数のスナップ写真さえ
それが一回限り、
かけがいのないものであることに変わりはない。
時間。
その、およそたるにたらない一瞬でさえ、
旅行者のシャッターの一押しでさえ、
それは一回限りで二度と再び呼び戻せない。
驚くべきことに、
写真には、そこに、時間が「定着」されていると考えられているが、
実はその反対で、
あらゆる写真の中で、時間が、
いかにとらえがたいものであるか、
いかに無常なものであるかが
明らかにされるのである。
あらゆる写真は
私たちが死ぬべきものであることを想起するよすがとなる。
あらゆる写真は生と死をテーマとする。
あらゆる「定着された画像」は聖なるアウラをはらんでいる。
それは写す者のまなざし以上のものとなり、
人間の能力を超えて行くのだ。
だからあらゆる写真は一つの創造行為でもある。
時間を超越し、
神の視点で見ることである。
それは忘却の彼方に沈んだ戒律を想起させる。
「汝、いかなる似姿をもなすなかれ・・・」
写真を撮ること
─よりふさわしくは、写真を撮ることを「許す」こと─は、
真実であるには美しすぎる。
次のように言ってもかまわない。
美であるには真実すぎる、と。
写真を撮ることはいつでも常に僭越で、反抗的な行為である。
撮ることは尊大である、
そして同時に滅多にないほどの謙遜を教えてくれる。
(それゆえに尊大な「かまえ」と、
同じぐらい謙虚な「かまえ」が共存し得るのだ。)
カメラを二つの方向、
─前、そして後ろ─に向けることは、
二つの画像を互いに融合させることだ。
そうすると、「後ろ」は「前」の中にとり込まれる。
カメラは写真家に、
撮る瞬間、
対象から引き離されることなく、
対象の前にいることを許すのである。
ファインダーを通して、
世界を覗くものは、自身から離れ、そして自身を超えてしまう。
よりよく想い/出し、
理解し、
聴けるようになり、
そればかりかもっと、愛することができるようになる。
(そして、残念なことに、より多く見誤ることも確かだ。
いわば「不吉な眼差し」。)
あらゆる写真は、
時間における、あらゆる「一度だけ(ONCE)」は、
歴史の始まりでもある。
歴史は「むかしむかし・・・(ONCE UPON A TIME)」で始まる。
あらゆる写真は、ある映画の最初のカットでもある。
多くの場合、これに次の瞬間が続く。
もう一度シャッターを押せば動きが生まれる。
次のイメージが出来れば、
固有の空間と、
固有の時間における、
「物語」が動き始める。
少なくとも私にとっては、しだいしだいに
写真を撮ることが「物語の発見」であるということを、
意味するようになってきた。
だから、この本の中では、多くの場合
一枚だけではなく、何枚かの写真によって、
それぞれの物語が構成されている。
二枚目の写真から既に「モンタージュ」が始まっている。
一枚目の写真で予告された物語が、
固有の方向へ、時間の感覚を漂わせながら揺らいでいく。
ある時には主役だと思われたものが、単なる脇役にすぎないとわかる。
また、ある時は中心となるのが人ではなく、風景だったりする。
私は、風景に、物語を生み出す力があると確信している。
街であれ、砂漠であれ、山並みであれ、海岸線であれ、
物語を求めて叫んでいる風景というものがあるのだ。
それは「自らの物語」を呼び覚ます。
そう、自らを「生み出す」のだ。
風景は主役を演じることができる。
そのとき、人はエキストラにすぎない。
私は、また、小道具たちの雄弁さを確信している。
写真の隅に何気なく置かれた新聞紙が、
すべてを物語っている場合だってあるのだ!
あるいは、背景に見えている広告の掲示板!
あるいは、写真の角すれすれに停まっている使いものにならなくなった
自動車!
椅子!
ものの存在は、それだけで、
かつて誰かがそこから身を起こした立ち去ったことを示唆している。
タイトルの半分だけが読めるテーブルの上に広げられた一冊の本!
街角に捨てられたタバコの空き箱!
スプーンが立てかけられたままのコーヒーカップ!
写真の中では「ものたち」が、楽しそうにも、悲しそうにも、
それどころか喜劇的にも、あるいは悲劇的にもなれるのである。
あるいはただの服!
多くの写真でそれが最も刺激的なものになっている。
少年の足にたるみながら引っかかっている靴下!
後ろ姿のひっくり返った襟!
汗の染み!
皺!
つぎやボタン!
真新しいアイロンの跡!
ある女の生きざまが、彼女が身につけているものの中に、
その受難の歴史の中に、現れるのだ!
一人の人間のドラマが、身につけているコート一枚に刻まれている!
着るものは、写真の中の温度を、日付けを、時刻を、
戦争の渦中なのか、それとも平和のうちにあるのかを教えてくれる。
そして、カメラの前では何もかもが「一度だけ」。
「一度だけ」が写真に撮られてると、
「いつも/何度でも」に変貌してしまう。
写真に撮られて初めて、時間は目に映るようになる。
一枚目の写真と二枚目の写真の「間」の時間の中に、
もしもこの二枚の写真がなかったら、
すっかり忘れられてしまったまま「何度でも」に
呑み込まれてしまっただろう
「物語」がよみがえる。
私たちは、撮る瞬間、
この世界から消え去り
「もの」の中に入り込むために、
シャッターを押す。
写された世界と「もの」は、
写真から抜け出て、
その写真を見る者のまなざしを受け、
物語として生き続ける。
私は、
この写真集が、
一冊の物語になればよいと願っている。
物語はまだ「生まれていない」。
まなざしで聴こうとする者の前には、
やがて物語が現われるのかも知れない。
追記
この本の最後に書かれていた言葉
「一度は(かつて)は、(まだ)ないのと同じ」という格言がある。
子供の頃は素直にそう思っていた。
しかし、少なくとも写真に関してはこれは正しくない。
「かつて、は、一度限り」なのだ。
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本日秋晴れ/最後の最後で息切れした阪神タイガースの2008年が終わる/正攻法も長くは続かない/来季監督交代で何かが変わるコトに期待する
本日秋晴れ/個人的には有意義な3日間だった/「街写真はロックに似ている」Y君が言っていた名言/心地よい腰抜け写真は個人のアルバムに入れて墓場まで持って行けば良いのだろう?/死ぬ前に跳べ
本日晴れ/ビーツギャラリーで東西交流街写真展「区区(まちまち)」を開催中/日曜日の18時まで展示中/参加者:磯村昌司/佐藤春菜/長藤さつき/okajimax/藤原勉/吉田真啓/明日土曜日夜7時から出展者のトークイベント/東西街写真の行方?w
本日秋晴れ/朝から東京L誌の取材でたま駅長に会いに和歌山に向かう/猫駅長は政治家のような風貌で元気だったw/久しぶりのモノクロページ/ソニーR-1のモノクロモードで撮る/久しぶりに再会した東京美人ライターMさん/彼女から大阪から東京へ旅立ったカメラマンK君とD君の近況情報を聞きながら焼肉定食を食べる/大阪に戻る/ビーツで今日のデータ整理していたら、東京カメラマンのS氏から連絡/仕事で大阪に来ているとの事/久しぶりにビーツで小宴会/彼の野望に満ちた独演会を聞くw/酔っぱらって2010年には東京で生活するコトを約束する
本日雨/ネットのニュース/以下アサヒ.コムのコピペ
大阪発行の情報誌「Lmagazine(京阪神エルマガジン)」が12月25日発売の2月号で休刊することが14日、分かった。関西で地域密着型の情報を発信し、「エルマガ」の愛称で親しまれてきた。発行する京阪神エルマガジン社(本社・大阪市)は「9月に創刊した女性誌『Richer(リシェ)』に力を入れるため」としている。
同誌は77年創刊。関西情報誌の草分け的存在で、東京の出版社が発行する情報誌が関西に進出してきた後も、手厚い地域情報で存在感を発揮してきた。最盛期の83年ごろには約15万部の実売部数があったが、近年はインターネットやフリーペーパー(無料情報誌)の普及で苦戦していた。
同社の廣實(ひろざね)留理社長は「部数の問題以上に広告収入が厳しくなっており、今後は情報誌よりも生活情報重視の新女性誌に力を入れた方がいいと判断した」と話している。
追記
正式なエルマガ休刊の発表/まだ3号も残っているのに思っていたより早い発表だった/年内の取材やインタビューがやりにくい?/気になるのは最終号/どんなテーマの特集になるのだろう?/K編集長の最後のメッセージ/広告とは無縁の雑誌を残して欲しいと思う/自分と云う読者に嘘の無い雑誌を作って欲しいと思う/本来雑誌は自分が見たリ知りたいモノを作るコト/原点に戻れる最後のチャンス?
大阪発行の情報誌「Lmagazine(京阪神エルマガジン)」が12月25日発売の2月号で休刊することが14日、分かった。関西で地域密着型の情報を発信し、「エルマガ」の愛称で親しまれてきた。発行する京阪神エルマガジン社(本社・大阪市)は「9月に創刊した女性誌『Richer(リシェ)』に力を入れるため」としている。
同誌は77年創刊。関西情報誌の草分け的存在で、東京の出版社が発行する情報誌が関西に進出してきた後も、手厚い地域情報で存在感を発揮してきた。最盛期の83年ごろには約15万部の実売部数があったが、近年はインターネットやフリーペーパー(無料情報誌)の普及で苦戦していた。
同社の廣實(ひろざね)留理社長は「部数の問題以上に広告収入が厳しくなっており、今後は情報誌よりも生活情報重視の新女性誌に力を入れた方がいいと判断した」と話している。
追記
正式なエルマガ休刊の発表/まだ3号も残っているのに思っていたより早い発表だった/年内の取材やインタビューがやりにくい?/気になるのは最終号/どんなテーマの特集になるのだろう?/K編集長の最後のメッセージ/広告とは無縁の雑誌を残して欲しいと思う/自分と云う読者に嘘の無い雑誌を作って欲しいと思う/本来雑誌は自分が見たリ知りたいモノを作るコト/原点に戻れる最後のチャンス?
本日晴れたり曇ったり/タイガースの悪夢から醒めぬ状況が続く/そして岡田監督は辞任の決意/コインランドリーで洗濯を終えてIXY持ってビーツまで写真散歩/今週ビーツで展示する「区区(まちまち)」展で悩む/街を撮る意味に悩む/中年男がコンデジ持ってゴミなどを撮っている姿は世間から見て少し変だろうな?と思いながら歩く/誰かに呼び止められて、何をしているのかを尋ねられたら意味も無く謝るしかないだろうと思いながら歩く/意味も無く生きる
本日晴れ/昨日は朝から京都取材/京都で4軒回るのは辛い/ライターとモデルの美人二人組のお陰で無事に取材を終える/夕方知り合いの写真展に行く予定で丸太町で下車するがDMで地図を確認すると開催日は来月だった(汗/大阪に戻る/夜、アメ村のBANCOで展示しているジョンの写真展へ向かう/Seal Pool Photographic Exhibition : Tourist/今回はA1サイズの展示5枚/もっと枚数が見たいが展示スペースの問題/約束が在るのでビール2本飲んでビーツに戻る/友人のカメラマンN君が持参したペラペラな用紙の婚姻届/証人のサインをする/今日10日に提出するらしい♪/僕みたいな人間が証人で二人が幸福になれるのかが心配だ
本日曇り空/夢が面白かったので三度寝して夢の三本立てを見る/友人が数人登場していて面白かった/断片化した記憶を片付ける/デフラグ/昨夜のタイガースは辛い試合運びだった/ビーツの残りもんのカレー食いながら応援する/東京からBカメラマンがロング缶の差し入れ持ってビーツに来る/休刊雑誌の話/これで彼も大阪に未練が無いだろう?/食い倒れ太郎が定年して清原選手が引退/そして老舗カルチャー雑誌が消える/これで阪神タイガースが優勝を逃したら大阪の終焉かも?/ノアの方舟を考える
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