忍者ブログ
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

本日秋晴れ/朝から本の探し物をしていたら昔買ったヴィム・ヴェンダースの「いつか‥」を発見/箱入りの小さな写真集/1994年パルコ出版/ヴェンダースは映画監督だが写真も撮る/当時はつまらない写真集だと思ったが今見るとなかなか良いのだw/始めに「写真を撮るということに」と云う序文が記されている

スナップを撮る。
写真は時間の行為だ。
写真は時間から何かを引きずり出し、
自分の流れそのものを変えてしまう。
人は、
カメラの「前」では、時間によって奪いとられたものが、
在る、と考える。
しかしそれは間違っている。
写真とはむしろ二つの方向に向かった行為のことだ。
前。そして、後ろ。そう、
「後ろに向かって」もいるのだ。
こんなにしっくりこない比喩もめずらしい。
猟師が目の前の獲物に向かって猟銃の狙いを定め、引き金を引く。
銃弾が猟銃から放されるとき、猟師が反動を受けるように、
カメラマンがシャッターを押すとき、
彼もまた自分自身へと突き飛ばされる。
写真は常に二重の映像だ。
つまり、カメラはとらえたものを写しとめると同時に、
「背後」への「反動」を起こし、
写真を撮った瞬間のカメラマンの姿をも画面に写し込んでしまう。

あらゆる写真に写し込まれるいるこの二重性は
レンズがとらえたものではない。
ちょうど、猟師がその弾丸によって
本当にはじきとばされるのではなく、
ただ反動を感じるだけなのと同じだ。
では写真の「反動」とは何だろう?
人はこれをどうやって感じるのか?
これは、どのようにして写された画像に刻印されるのだろう?
その何かが写真に焼き付けられるのだろうか?
ドイツ語には、
このことを言い表すのに、多層的な意味を持つ、
大変都合のよい言葉がある。
EINSTELLUNG(アインシュテルング)
何かあるものに対して心理的、あるいは倫理的に、
「順応する」ときの心がまえを、
人はこの言葉で表現する。
すなわち、何かを待ちかまえ、受け入れるということだ。
この言葉は、また、
写真、あるいはフィルムに関係する言葉でもあり、
その場合には、
画像、あるいはカットを意味する。
さらに、カメラマンが写真を撮る場合の、
明るさやシャッタースピードを
「調整」ときにもこの言葉が選ばれる。

同じ一つの言葉が、
ある動作だけではなく、
この動作によって得られる画像をも意味するのは偶然ではない。
実際、あらゆるEINSTELLUNG
─すなわち、あらゆる「画像」─は、
その画像が撮られたときの
EINSTELLUNG─すなわち「かまえ」─を反映している。

猟師の経験する衝撃は、すなわち、
撮られたものの背後に見えかくれする撮った人間の肖像である。
そこには彼の顔かたちではなく、
彼の「かまえ」─が、
目の前にあるものへの、
彼自身の「かまえ」が、
写し込まれるのだ。

カメラは、
前と後ろを同時にとらえることのできる眼だ。
前への視線が
写真家の魂のシルエットをとらえる。
写真家は、その眼を通して自分を振り返る。
カメラが眼の前の対象をとらえる。
と同時に、何故この対象が自分をとらえたのかを
自分に振り返って尋ねるのだ。
カメラは「もの」とその「もの」に向かう
己の欲望を同時にとらえるのである。

そう。
あらゆる瞬間に、
この世界のどこかで、
誰かがシャッターを押している。
そして何かを定着する。
一回限りの光、
一つの顔、
一つの風景、
一つの気分、
あるいはただ単に一つの状況が、
彼を、彼女を、魅了し、定着を迫ったのだ。
写真の対象、
それははっきり目に見える。
そして無数にある。
そして一瞬一瞬
無限に更新されてつつ増大して行く。
世界のどこかの、写真家にとって、
すべての瞬間はしかし、一回限り、
かけがいのないものだ。
時間。
つかまえることのできない時間が、
その保証人とは。
旅行者の、
「シャッターチャンス」に撮られた無数のスナップ写真さえ
それが一回限り、
かけがいのないものであることに変わりはない。
時間。
その、およそたるにたらない一瞬でさえ、
旅行者のシャッターの一押しでさえ、
それは一回限りで二度と再び呼び戻せない。
驚くべきことに、
写真には、そこに、時間が「定着」されていると考えられているが、
実はその反対で、
あらゆる写真の中で、時間が、
いかにとらえがたいものであるか、
いかに無常なものであるかが
明らかにされるのである。
あらゆる写真は
私たちが死ぬべきものであることを想起するよすがとなる。
あらゆる写真は生と死をテーマとする。
あらゆる「定着された画像」は聖なるアウラをはらんでいる。
それは写す者のまなざし以上のものとなり、
人間の能力を超えて行くのだ。
だからあらゆる写真は一つの創造行為でもある。
時間を超越し、
神の視点で見ることである。
それは忘却の彼方に沈んだ戒律を想起させる。
「汝、いかなる似姿をもなすなかれ・・・」

写真を撮ること
─よりふさわしくは、写真を撮ることを「許す」こと─は、
真実であるには美しすぎる。
次のように言ってもかまわない。
美であるには真実すぎる、と。
写真を撮ることはいつでも常に僭越で、反抗的な行為である。
撮ることは尊大である、
そして同時に滅多にないほどの謙遜を教えてくれる。
(それゆえに尊大な「かまえ」と、
同じぐらい謙虚な「かまえ」が共存し得るのだ。)

カメラを二つの方向、
─前、そして後ろ─に向けることは、
二つの画像を互いに融合させることだ。
そうすると、「後ろ」は「前」の中にとり込まれる。
カメラは写真家に、
撮る瞬間、
対象から引き離されることなく、
対象の前にいることを許すのである。
ファインダーを通して、
世界を覗くものは、自身から離れ、そして自身を超えてしまう。
よりよく想い/出し、
理解し、
聴けるようになり、
そればかりかもっと、愛することができるようになる。
(そして、残念なことに、より多く見誤ることも確かだ。
いわば「不吉な眼差し」。)

あらゆる写真は、
時間における、あらゆる「一度だけ(ONCE)」は、
歴史の始まりでもある。
歴史は「むかしむかし・・・(ONCE UPON A TIME)」で始まる。
あらゆる写真は、ある映画の最初のカットでもある。
多くの場合、これに次の瞬間が続く。
もう一度シャッターを押せば動きが生まれる。
次のイメージが出来れば、
固有の空間と、
固有の時間における、
「物語」が動き始める。
少なくとも私にとっては、しだいしだいに
写真を撮ることが「物語の発見」であるということを、
意味するようになってきた。
だから、この本の中では、多くの場合
一枚だけではなく、何枚かの写真によって、
それぞれの物語が構成されている。
二枚目の写真から既に「モンタージュ」が始まっている。
一枚目の写真で予告された物語が、
固有の方向へ、時間の感覚を漂わせながら揺らいでいく。
ある時には主役だと思われたものが、単なる脇役にすぎないとわかる。
また、ある時は中心となるのが人ではなく、風景だったりする。
私は、風景に、物語を生み出す力があると確信している。
街であれ、砂漠であれ、山並みであれ、海岸線であれ、
物語を求めて叫んでいる風景というものがあるのだ。
それは「自らの物語」を呼び覚ます。
そう、自らを「生み出す」のだ。
風景は主役を演じることができる。
そのとき、人はエキストラにすぎない。
私は、また、小道具たちの雄弁さを確信している。
写真の隅に何気なく置かれた新聞紙が、
すべてを物語っている場合だってあるのだ!
あるいは、背景に見えている広告の掲示板!
あるいは、写真の角すれすれに停まっている使いものにならなくなった
自動車!
椅子!
ものの存在は、それだけで、
かつて誰かがそこから身を起こした立ち去ったことを示唆している。
タイトルの半分だけが読めるテーブルの上に広げられた一冊の本!
街角に捨てられたタバコの空き箱!
スプーンが立てかけられたままのコーヒーカップ!
写真の中では「ものたち」が、楽しそうにも、悲しそうにも、
それどころか喜劇的にも、あるいは悲劇的にもなれるのである。

あるいはただの服!
多くの写真でそれが最も刺激的なものになっている。
少年の足にたるみながら引っかかっている靴下!
後ろ姿のひっくり返った襟!
汗の染み!
皺!
つぎやボタン!
真新しいアイロンの跡!
ある女の生きざまが、彼女が身につけているものの中に、
その受難の歴史の中に、現れるのだ!
一人の人間のドラマが、身につけているコート一枚に刻まれている!
着るものは、写真の中の温度を、日付けを、時刻を、
戦争の渦中なのか、それとも平和のうちにあるのかを教えてくれる。

そして、カメラの前では何もかもが「一度だけ」。
「一度だけ」が写真に撮られてると、
「いつも/何度でも」に変貌してしまう。
写真に撮られて初めて、時間は目に映るようになる。
一枚目の写真と二枚目の写真の「間」の時間の中に、
もしもこの二枚の写真がなかったら、
すっかり忘れられてしまったまま「何度でも」に
呑み込まれてしまっただろう
「物語」がよみがえる。

私たちは、撮る瞬間、
この世界から消え去り
「もの」の中に入り込むために、
シャッターを押す。
写された世界と「もの」は、
写真から抜け出て、
その写真を見る者のまなざしを受け、
物語として生き続ける。

私は、
この写真集が、
一冊の物語になればよいと願っている。
物語はまだ「生まれていない」。
まなざしで聴こうとする者の前には、
やがて物語が現われるのかも知れない。


追記
この本の最後に書かれていた言葉

「一度は(かつて)は、(まだ)ないのと同じ」という格言がある。
子供の頃は素直にそう思っていた。
しかし、少なくとも写真に関してはこれは正しくない。
「かつて、は、一度限り」なのだ。







PR
COMMENT FORM
NAME
URL
MAIL
PASS
TITLE
COMMENT
Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字
COMMENT
無題
かなりの長文で読み切るのに集中力を要しましたが(汗)凄くいいこと言ってますね。
自分のブログにもちょっと引用させてもらいました。
ふじわら 2008/10/21(Tue)22:11:28 編集
無題
その本は僕のバイブルです。
サカモ 2008/10/21(Tue)22:21:40 編集
無題
読みました…
久しぶりに連れと飲んで酔ってる状態だったので3回読みました。
写真でアートするな、とか写真を難しくするなって思います(そういう理論武装している人はそれはまたそれで否定はしませんが)。

ある家族の、何も考えない素の日の丸写真とか見ると、やっぱり写真てドキュメンタリーが美しいなぁ、とか思ったりします。
本質はやっぱり技術ではないですよね。
仕事じゃなかったら?
ヤマサキコージ 2008/10/21(Tue)23:58:57 編集
無題
翻訳があまりよくないのかなっ?
と思いました。
バンリ 2008/10/22(Wed)01:55:45 編集
無題
ロック街写真展へのヒントになりますね。僕もその本持ってるので、そっちでじっくり読み返します。
吉田 2008/10/22(Wed)09:31:27 編集
無題
心が動けば何だって良いのですw
後はその人の生き方を始めるだけ♪
okajimax 2008/10/23(Thu)17:25:17 編集
TRACKBACK
TRACKBACK URL > 
09 2017/10 11
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31
プロフィール
HN:
okajimax
HP:
性別:
男性
バーコード
最新トラックバック
最新コメント
[09/17 okajimax]
[01/18 photogino]
[09/16 okajimax]
[09/16 photogino]
[06/22 okajimax]
ブログ内検索
アクセス解析
カウンター
忍者ブログ [PR]
"okajimax" WROTE ALL ARTICLES.
PRODUCED BY SHINOBI.JP @ SAMURAI FACTORY INC.